母衣

母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く。 

母衣は古くからあり、後には武士の「七つ道具」の一つとされたほど由緒ある道具である。古代の母衣は鎧の上から全身を覆う保呂衣(ほろぎぬ)という戦袍(せんぽう)であり、防寒のためだったとする説もある[4]。それが平安時代末から鎌倉時代になると、母衣は懸保呂(かけぼろ)となった。縦に縫い合わせた長い絹布(5尺8寸、5幅ほど)を、首、冑、手の甲などに紐で結びつけて、それが風をはらんでふくらむことで、後方からの弓矢や石を防ぐ役割を果たした。また前方に対しても母衣を頭から被って矢を防いだとする説もある。日本においては古代から中世まで長らく弓を主武器とする戦闘法が用いられており、隙間の多い大鎧をまとって馬を駆る当時の武士には適していたのであろう。

しかし(日本独自に様式化された)騎馬戦闘が廃れ、南北朝時代室町時代)頃から集団戦に移行したことで、古式の母衣は実用性が低下し、見栄えが重視されるようになった。内部に鯨のひげや竹などで作った骨(母衣骨、母衣籠)を入れて常にふくらんだ形状を維持できるように変化して、前には「だし(山車)」というものを立て、串をもって鎧の後ろに挿して、敵味方に自分の存在を示す標識ともなる差物(さしもの)の一種となった。保呂指物(または提灯保呂)は、大きさも大型化し、10メートルを超えるような巨大な布が棚引くものもあった。戦国時代に鉄砲が伝来すると補助防具としての実用性は失われたが、大将側近の近習や使番だけが着用を許される名誉の装飾具となった。(母衣衆)

新井白石の『本朝軍器考』では「母衣」という表記はその形状と用途から妊婦の胞衣になぞらえたものであるという説を載せているが、民俗学者南方熊楠は、中国古典より「羽衣」の字を写し間違えたという説を主張していた。 



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